我楽多屋で買った    モノ・マガジン

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我楽多屋で買ったモノ・マガジン 第285

イエローのプライスタグの文字が見えなくなる

VSOPのヤシカエレクトロX

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この10年ぐらいリアルなカメラ屋さんに行く事はなくなりました。世界の中古カメラ市などは20年以上行っていません。それで私にとってのリアルなカメラ屋さんというのは、世界にただ1つ四谷荒木町のガラクタ屋さんがあるだけです。

ガラクタ屋さんは日本国内ではとびきり怖い寿司屋のオヤジみたいな評価がされていますが、これはヨーロッパなどではカメラ屋さんとお付き合いするときの最も基本的な人間関係というわけです。サービスを受ける側と与える側が対等な関係で社会生活を送っているという事の典型的な一例ですが、パリの公共バスでお客さんが乗るときにボンジュールと言うとドライバーさんも必ずボンジュール。

カメラ屋さんのお付き合いがガラクタ屋さんでしかないので、黄色いシールで見分ける必要もありません。黄色いシールが付いていないのはeBayなどのネットオークションで手に入れたものです。

その黄色いシールは20年位前から付いていると思いますが、実際にはいつ頃スタートしたのか二代目さんに今度ちゃんと聞いておきたいものです。

それでいつも仕事しているコーナーの4mくらい先に金属のラックがあって、そこにピカピカ光るカメラがあったので「これはなんだろう」と思って、取り出してみたらこのカメラでした。

ヤシカエレクトロというタイトルのカメラは、60年代後半に海外旅行のカメラというので大流行になりました。当時は海外旅行の値段がすごく高くて、最初のジャルパックのハワイ行きの値段などは1,000,000円に近かったそうです。60年前の値段ですよ。そういうリッチなお客からすればカメラ等は安いもの。しかしちゃんと取れないと困るというのでエレクトロシリーズが大流行。

手に取ってみてこの一眼レフがすごいと思ったのは、その仕上げが非常にすばらしいことです。上質な日本製カメラのスタンダードだと私が思っている、これも大昔ガラクタ屋さんで手に入れた製造番号が64のニコンFと並べてみましたが全く遜色なし。そのニコンよりもこの一眼レフの方が仕上げが良いくらいのものなのです。

あの当時の一眼レフの記憶、すなわち私が写真学校の学生だった頃のメモリーを呼び出してみると、あの頃の写真学生はニコンFしか使っていませんでした。ニコンFを手に入れることが人生の究極の目的であった時代に、ニコンFを使っている写真学生の存在そのものが大変ゴージャスであったのだなぁと今にして反省しています。

その当時に私がヤシカエレクトロの一眼レフに感じた印象というのは、まず嫌いなのが電子マークのシンボルでした。これが鉄腕アトムみたいでかなりダサいと思ったのです。でもあれから60年が経過してみると、なかなか時代の先端を走っているカメラデザインであることがわかりました。

2つ目にこのヤシカエレクトロXで感心したのはカメラのシャッターの音が非常に良いことです。しかも操作はとてもスムース。裏蓋を開けてみたらシャッターは金属製のバーチカルに走るやつですからCopalスクエアだと思うのですけれども、そうだとすればニコマートなどに比べてシャッターの音は2段階静かというのが素晴らしい。

それで問題にしたいのはガラクタ屋さんの黄色いシールがフェードアウトしていて全く読めない事でした。しかし信頼できるのは二代目さんが大きな文字でボールペンで書いたOKというアルファベットがいかにも信頼感あり。

フイルムが高くなったので1日1枚フイルムカメラ撮影全国国民運動を展開している私ですが、このカメラもその国民運動カメラの1つに加えたいと思います。

考えてみれば、1947年にペンタプリズムの35ミリ一眼レフがコンタックスSと言う名前で発売されて、戦後世界の35ミリ一眼レフがスタートしました。その後いろいろな歴史があって、ヤシカがコンタックスの名前を受け継いだ一眼レフを出したわけです。その歴史的な流れで見るとヤシカエレクトロXはその以前の重要なポジションにあるわけですから、コンタックスの正当な血筋をひいていることになります。この場合は世襲政治家と意味は全く違いますから、大変良い傾向だと思います。

何よりも嬉しいのはこのカメラのレンズマウントはM42ですから、そのまま1番最初のコンタックスSに付けて使うこともできます。

1980年の初め頃に、アメリカのモダンフォトグラフィーのケプラー編集長に付いて長野にあるヤシカカメラに取材に行きました。その時のケプラーさんの話では、つい数年前まで工場の車のアプローチから工場の入り口まで赤絨毯が敷かれていたという話を聞きました。

当時の日本のカメラメーカーにとってはアメリカさんは重要なというよりも最も大切なお客さんだったわけです。

 

 

(2023.7)