アベノンには思い出があります。
1980年代だったと思います。レンズメーカーのコムラ―(三協光機)が会社をやめる時に、役員の一人だった阿部さんが独立されました。
その阿部さんから連絡をもらいました。「アローさん、ライカスクリューマウントのレンズ(28mmF3.5)を製造中でとりあえず1000本くらいあるので、全部どうですか?レンズ名を「ARROW(アロー)」にしてもいいです」と。
私は色々考えた末に「全部引き受けましょう。でも、レンズ名は『ARROW』じゃなくていいです。『アベノン(AVENON)』が良いんじゃないですか?」と答えました。
引き受けたレンズの半分くらいは香港のカメラ屋さんに売りました。残りの半分は日本の仲間の業者へ売って、全部売りさばきました。
今日1月18日は、1924年に都バスが運行を開始した日を記念して「都バスの日」なんだそうです。
それで思い出したことです。
アローカメラ開店当初、知人に東京都交通局の売店を紹介してもらって、都バスや都電の車庫や工場に毎日のように通っていました。
1日70kmくらいスクーターで走って、白黒DPEの集配をしました。杉並や芝、練馬など、今でも残っている車庫の前を通るととても懐かしいです。多い日には20本くらいフィルムを預かって来ていました。
そのうちに、DPEの依頼主の方々とも知り合いになってカメラの販売も相当にしましたし、店でやっていたアローカメラクラブ(メンバー50名くらい居ました)の撮影会にも参加してもらったり楽しい時代でした。
写真フィルムの出荷数最盛期は1997年から1998年と言われています。今から20年前のことです。
でも、街の写真屋さんでフィルムがたくさん売れたのは、さらに20年から40年くらい前の話。大手量販店が台頭する前のことです。
私の記憶では、大阪万博のあった70年代前半がアローカメラで一番フィルムが売れた時代です。
万博で撮ったフィルムの現像を1人10本も20本も預かることもありました。
年末には36枚撮り2本セットに宝くじを1枚付けて1,200円くらいで売った思い出もあります。大晦日の夜中に店を開けていても、初詣へ行く人にフィルムが売れました。
久しぶりに幼馴染みに電話をしました。
彼は大手の会社に入って万年筆販売の営業をしておりました。後に独立してからも万年筆の販売を続けていました。
ずいぶん昔に私の店でも万年筆を預かって販売していたことがあります。セーラー万年筆でした。
近況を聞くと、最近は販売よりも古い万年筆の修理で生活しているそうで、元気そうでした。
ここのところ、古い万年筆の人気があるのだそうです。カメラと似ている傾向があるかもしれないなぁ!と、そんな話になりました。
彼は大阪で60年以上、万年筆で頑張っています。私は東京、カメラで一生やっていきます。
ハーフ判カメラの最盛期は前回の東京オリンピックの頃でした。
オリンパスのペンや、キヤノンのデミ、リコーのオートハーフなど各社が競い合ってハーフカメラを出しました。
当時キヤノンは有力販売店向けにネームを入れたデミをくれました。
今はそんなことはなくて、カメラを買ってくれた人にキャッシュバックサービスをやっていますね。
私が四谷でアローカメラを始めてから、今年で52年になります。
荒木町は現在では飲食店がたくさん出来て、美味しい食べ物屋さんや飲み屋さんがあります。
私が一番好きな焼き鳥屋さん「一蕃鶏」はオープンして、もう11年になるそうです。いつも満員で繁盛しています。
この店のマスターが開店して間もなく「野田さんとお知り合いになった記念に、カメラを1台買って大事に使ってみたいと思います。野田さんが勧める良いものを買います」と言われたので、ライカM3+ズミクロン50/2の綺麗なものを探してあげました。
※その時のブログ記事がこちら→https://camera-kaukau.lekumo.biz/arrow/2011/06/ichibandori.html
先日、久しぶりにこの店へ行ったら、「今でも子供の写真を撮ったり大切に使っています。買わせてもらった時に産まれた一人目はもう大きくなって、今は二人目の子もいます。野田さんのおかげで良いカメラと巡り合ってフィルムカメラを楽しんで使って、店も忙しくて毎日が充実しています」と言ってくれました。
美味しい焼き鳥もいただいてきました。