本日の閉店後のこと、二代目が電話中だったために、
我楽多屋に並べた品物を指さして、「これ買う!」という仕草をして帰っていた買取名人。
我楽多屋の商品まで買取るらしい(笑)。
今日の買取名人学は長くなります。
買取名人野田康司が就職した時の先輩が、数日前にお亡くなりになりました。
名人から、その和田さんと奥さんに送るメッセージをここに転載します。
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私が中学校を出て、神戸新開地のカツミ堂写真機店に入った時の店長が和田さんでした。
都会に出たのは初めてで、本当に今思うと15歳の子供だったので、和田さんはとても大きく見えました。
店の2階にふたりで寝起きしながら、田舎者の子供をよくかわいがってくれました。
つらいと思ったことは一度もありませんでした。毎日が新しいことばかりで楽しかったです。
和田さんと、奥さん(当時は末さんと呼んでいました)と私、3人兄弟みたいで、私を弟のようにかわいがってくれました。
和田さんと一緒に居た2年間、たくさんの社会勉強をさせていただきました。それが、私が今でもカメラ屋をやっている基礎になったのだと思います。私の人生の中で忘れられない2年間です。
特に忘れられない思い出を4つほど。
①銭湯に行って、「野田君背中を流してやろうか?」と言って背中を洗ってくれた和田さん。そして、後ろから前を覗きこんで、「まだ毛、生えてないね、、、」と笑われたこと。
②小豆島から出て来て初めての夜、夕食をする場所が別だったので、新開地商店街を歩いていると、「お兄ちゃん、こっちよ」と呼ばれてついて行ったら、パンパンの家でびっくりして、真っ青になって店に走って戻ったこと。実は、末さんが迎えに来てくれたのかと思ってついて行ったのでした。
③和田さん・末さんと3人で、六甲山に行ったり、海水浴に行ったりしたこと。奈良郡山の和田さんの実家に行ったことなど、休日の思い出もたくさんあります。
④店を閉めてから、豚まんを買いに行くのも日々の楽しみでした。当時、豚まん1個15円だったかと。。。
和田さん、本当にお世話になりました。ありがとうございます。安らかにお休みください。
平成25年11月1日
野田 康司
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和田様のご冥福を心よりお祈りいたします。
「当時(修業時代)の野田さんは、ひと言で例えると整理整頓の名人です」と、
三共カメラ 細川社長より、「野田康司のカメラ四谷快談」(東京キララ社発行)の「はじめに」において称されている。
朝イチで、「どい」さんの「い」は「井」じゃなくて「居」とチェック入りました。
当時(50年程前)の伝票に押されていた印鑑の記憶で~と。
なので、25日付アローカメラ&我楽多屋ブログの文中、先程訂正しました。