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今日1月18日は、1924年に都バスが運行を開始した日を記念して「都バスの日」なんだそうです。
それで思い出したことです。
アローカメラ開店当初、知人に東京都交通局の売店を紹介してもらって、都バスや都電の車庫や工場に毎日のように通っていました。
1日70kmくらいスクーターで走って、白黒DPEの集配をしました。杉並や芝、練馬など、今でも残っている車庫の前を通るととても懐かしいです。多い日には20本くらいフィルムを預かって来ていました。
そのうちに、DPEの依頼主の方々とも知り合いになってカメラの販売も相当にしましたし、店でやっていたアローカメラクラブ(メンバー50名くらい居ました)の撮影会にも参加してもらったり楽しい時代でした。
新潟から宅配便でたくさん買取り依頼の品物が届きました。
ニコン5台、キヤノン6台、ペンタックス4台、ミノルタ6台、オリンパス26台、フジカ3台、コニカ2台、ヤシカ1台、リコー1台、トプコン1台、ペトリ1台、コーワ1台、他レンズ26本。
8年程前にも私の買取りをご利用いただいている方です。毎度ありがとうございます。
写真フィルムの出荷数最盛期は1997年から1998年と言われています。今から20年前のことです。
でも、街の写真屋さんでフィルムがたくさん売れたのは、さらに20年から40年くらい前の話。大手量販店が台頭する前のことです。
私の記憶では、大阪万博のあった70年代前半がアローカメラで一番フィルムが売れた時代です。
万博で撮ったフィルムの現像を1人10本も20本も預かることもありました。
年末には36枚撮り2本セットに宝くじを1枚付けて1,200円くらいで売った思い出もあります。大晦日の夜中に店を開けていても、初詣へ行く人にフィルムが売れました。
久しぶりに幼馴染みに電話をしました。
彼は大手の会社に入って万年筆販売の営業をしておりました。後に独立してからも万年筆の販売を続けていました。
ずいぶん昔に私の店でも万年筆を預かって販売していたことがあります。セーラー万年筆でした。
近況を聞くと、最近は販売よりも古い万年筆の修理で生活しているそうで、元気そうでした。
ここのところ、古い万年筆の人気があるのだそうです。カメラと似ている傾向があるかもしれないなぁ!と、そんな話になりました。
彼は大阪で60年以上、万年筆で頑張っています。私は東京、カメラで一生やっていきます。
昨日、お父様の遺品のカメラ等をお持ちいただいたお客様がいらっしゃいました。
ニコンFやNewFM2、キヤノンPやペンタックスSPなどがありました。
東京にお住いの息子さんは何処へ買取り相談をするのが良いか分からず、ご実家近くの写真屋さんにアローカメラを教えてもらってご来店くださいました。
同業者からの紹介は嬉しいものです。
昨日ふるさと小豆島で、野田家の長男である私の兄が91歳で亡くなりました。
私は兄のことが大好きでした。昨日は店が定休日だったので一日中 家で兄との思い出を振り返っていました。
日本の厳しい時代を生きてきた兄は、青年時代に相当の苦労をしました。炭鉱で働いている時は落盤で3回ほど死の寸前まで体験しましたし、百姓の経験もしました。
それでも、東京での私の仕事をいつもいつもすごく心配してくれていました。
昨日、日本カメラの佐々木編集長が新年の挨拶に来てくださいました。
去年から「買取職人」に名乗りを変えたことをどう思いますか?質問したら、「とても良い」と言ってくださいました。「買取プロや買取名人よりも良い響きがする」とも。